ニュースレター

主筆:川津昌作
名古屋の不動産何でも相談室がお送りする、不動産・ビジネスに関するニュースレター「名古屋ビジネス情報」へのご登録ありがとうございます。
不動産にとどまらず、名古屋のビジネス情報、街づくり話題、不動産経済、市場トレンドに関するニュース、物件情報など時代の変遷とともに広くお伝えしています。

特記事項 弊社ニュースレターは、弊社の関係者及びお得意様に限定して、不動産ビジネスを行う上で注目すべきテーマをタイムリーに取り上げ、問題点を共有する為の ワーキングペーパーであります。公的機関を含む他のセクターへの提言、請願、上奏、不特定多数への拡散を目的としたものではありません。転用を禁止します。 取り上げる内容については、成熟した定説を取り上げるのではなく、早熟なテーマを取り上げるため、後から検証すると拙速な結論になってしまっていることもあります。 そう言った事を十分にご理解したうえで、ご参考にしていただきますようお願い申し上げます。

徳川家一族独裁の江戸幕藩体制

〈2021年4月15日〉

地球温暖化の影響だろう、最近毎年のように南極の氷床が分離し、 巨大な氷山となって太平洋南端を回遊している。今回発見された南 極の氷棚のひび割れは、分離し氷山となるとNY市の大きさに匹敵 するとCNNが報じている。NY市と言う事は東京23区よりも大きい 面積規模と言う事だ。

私ごとであるが日は浅いが社会経済史学会の末席に席を置いてい る。歴史的思考で考えてみよう。最近は、金融学会などで盛んにお こなわれている、計量的なモデル式より、歴史的な理論検証の方が 心休まる。若い時には受け入れられなかったが、現代の社会現象を 過去の歴史に投影して理論思考する方法が受け入れられるようにな ってきた。これも加齢だろう。早速悠久の歴史ロマンの扉をたたい てみよう。

「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑を同時に輩出する尾張三 河地方のエネルギーは、他の地に追随を許さない。」と言ったのは 城山三郎である。その織田信長、豊臣秀吉が闊歩した日本の戦国時 代(15世紀末-16世紀末)は略奪経済であった。

敵地に攻め入り領地、人材、財物を奪い、自分たちの社会・市場の 「消費」「成長」の糧としてきた。この時代の社会が欲した成長が 略奪と言う経済システムによって実現された。極端な言い方をすれ ば「武力による略奪主義」社会であったともいえよう。

当時の社会構造もこの略奪主義経済を実現するものになっていた。 お城が敵に攻め込まれない要害の山城であったり、合戦のために兵 糧を蓄え、戦略こそが人材となる武士上位社会であった。農産物な どによる内需より、戦争略奪による経済成長を最優先とする、論 功に基づく主従関係、コミュニティ社会であった。

略奪したものを戦利品として頑張った部下に与え、部下はそれを糧 に成長した。極端な言い方をすればこれが略奪こそが戦国時代の成 長エンジンであった。やがて、豊臣秀吉がひとまず天下を統一す る。統一すると言う事は、攻めこむ敵が国内に無くなったことを意 味する。国内略奪主義社会の行き詰まりである。

豊臣秀吉が天下統一をしたことにより、国内で攻め入るところがな くなり、略奪し家来に与える領土、財物を求めて朝鮮半島へ攻め入 ったという説があった。しかし現在多くの歴史学者はそれを否定 し、朝鮮出兵は、当時のキリシタン勢力、スペイン・ポルトガル の世界戦略が影響したなどの要因が定説となっている。

だが、戦国時代が略奪を通じて社会の成長ニーズを実現してきたこ とは事実であった。このシステムが行き詰まり、略奪という成長エ ンジンに変わるものを見つける必要があった。それをなしたのが徳 川家一族郎党による一党独裁の江戸幕府の偉業であった。

これと同じことが、今グローバル経済で起きている。現在のグロ− バル経済の成長エンジンが資本である。資本を成長エンジンとした 経済システムが資本主義社会であったが、資本が支配権を行使しよ うとする新たな未開発地がなくなり、成長が行き詰まってしまって いる。

市場経済では、需要と供給のバランスによって財物の価格が決ま る。自分だけが大儲けしようとして財物を大量に作っても、市場で 大量に供給すれば価格が下がり、儲けることができない。これが価 格自動調整システムであり、古典経済学の原点である

しかし、もし自分に有利な価格操作が可能になれば、大儲けでき る。したがって資本力に物言わせて独占市場を作り上げて、自分に 有利な価格決定を行い、大儲けしようとしだす。資本力に物言わ せ、市場を支配する経済システムが資本主義であった。

この資本主義は、現代に至り、時に一部の勝者だけが大儲けし、ま すます傲慢になり、その他の多くの敗者を見下し、格差を助長する 弊害を伴うことは改めて言うまでもないことである。

ではなぜ、このような弊害を起こしてしまった資本主義経済が西側 社会で受け入れられたのだろうか?それは資本主義が市場参加者の ニーズである成長を約束したからである。

資本主義はあらゆる欲望を掻き立て、他人よりいいものを、他人よ り多く欲しいという欲望を満たした。欧米の上位のハイファッショ ン文化を未開発国に見せつけ、あこがれを持たせ、欲望を掻き立て 次から次へと市場(消費)として開拓していった。と同時に安いコ ストの労働力を略奪していった。

あらゆる欲望を掻き立て、それを満たすビジネスモデルを成長エン ジンとして、西側先進諸国・OECDを盟主として、欧米から周辺の 南米、アフリカ、アジアに勢力を伸ばし、現在のグローバルスタン ダードを形成していった。市場参加者が皆この成長エンジンに群が ったのである。

資本主義の成長の実現にはいろんな要素がある。イノベーションも その一つである。確かにイノベーションも成長を実現するが、資本 主義の成長で最も大きく貢献したのは、未開の地から消費を搾取す るところにあった。

欧米のビジネスモデルは、マスメディアを使い常に西洋文化をPR し続け、西洋文化に対するあこがれを喚起し続けた。いち早く西洋 化した日本市場を獲得し、順次中国、インドを獲得し、やがてG20 諸国の経済成長を搾取したところに、資本主義の成長の本質があっ た。

しかしすでに、世界中に資本主義の財物(マック、スタバ、自動 車、家電製品)、映像情報(文化、ファッション、スポーツ)が行 き渡り、新たに開拓する領土はなくなり、搾取する安い労働力も 限界に達し見返りも少なくなってきたし、環境問題、人権問題など社 会コストがむしろ増大しだした。それが現在の西側諸国の経済低成 長現象である。

インターネットは世界中をつなげ、世界中に西側世界のグローバル スタンダードである西側のハイソサエティな文化、ファッションの 映像があまねく配信された。もはや未開の地はなくなったのであ る。

新たに異星人の領域でも侵略しない限り、更なる成長は期待できな い状況にまで行き詰めてしまった。まさに日本の戦国時代の終焉に 酷似してきたわけだ。

では、戦国の世から変わった江戸時代は、何を成長エンジンとし、 それによる社会がどう変わったのであろうか?

まず略奪戦争がなくなったことにより、難攻不落のきわめて不便な 山城を捨てて、農地を求めて河川周辺、河口周辺、主要街道沿いの いわゆる沖積層エリアの平野に生活の拠点を移し始めた。戦争防衛 優先から、商い・農産物生産優先へ、社会の仕組みが変わっていた のである。

そして消費拡大・内需産業の振興こそが、成長エンジンとなってい ったわけだ。それを実現できる人材が登用され、それまでの戦争バ カの武人が窓際に追いやられるようになる。そして消費拡大・内需 産業の振興を実現する社会の器が必要になっていく。

それが江戸時代の幕藩体制の政策である。地方をすべて藩として、 領主に領地を幕府が与える形になっていく。ただしこの幕藩体制が 確立するのは江戸時代の後半、幕末と言ってもいい。それくらい時 間がかかっているわけだ。

天下統一と言えども、旧豊臣恩顧の外様大名が多く存在し、彼らの 多くは戦国時代に自分たちの力で領地を獲得したものであり、簡単 に藩体制が出来上がったわけではない。時間をかけて、参勤交代な どで地方の大名に勢力をコントロールし、改易国替えを繰り返し幕 府に忠義のある領主を育てていった。

その結果出来上がった幕藩体制では、藩主は殿と言えども地方行政 長官のような位置づけになり、いかに領民の安定を図り、同時にい かに幕府に謀反を起こさせないかを監視する、中央政府から信任を 受けた行政官になっていった。

このような社会体制の移行が、徳川家一族郎党による一党独裁国家 のものとで実現したのである。いろんなデータがあるが、あるデー タでは1600年に日本全国(除く琉球)の人口が1200万人であった のが、1846年3200万人に、全国の総石高は13百万石高が33百万石 高にまで成長を実現している。

現代に話を戻すと、今、資本主義の経済成長率が落ちてきているこ とは、トマ・ピケの新資本論を読まなくても周知の事実である。そ の中で米中と言う新旧勢力の経済戦争が起きている。

これがまさに、日本を豊臣勢力の西軍と徳川勢力の東軍による天下 分け目の戦いである関ケ原の合戦に酷似しているわけだ。そして勝 利を収めた徳川家一族郎党による一党独裁体制が始まった。江戸幕 藩体制は、主従の忠義をベースにした君主制、さらにその後の明治 時代も王政であり、主権在民の民主主義国家ではなかった。

このように、戦国時代で略奪システムが行き詰った日本が、強力な 一党独裁の下で、内生振興を成長エンジンとした。そしてそれを補 完するかのように、徹底した鎖国制度を取ったのである。鎖国制度 はいわゆる保護貿易を意味し、内生振興を実現補完するための制度 でもあったわけだ。

さてこのような、旧体制の行き詰まりから打開した日本のありさま を見ながら、皆さんは今のグローバル社会の資本主義経済の行き詰 まりの将来をどのように予見されるでしょうか?

今回のニュースレターの意図は、ポスト資本主義として共産国家の 独裁が是とされることを予見するものでは決してない。しかし現在 時代に逆行しているといわれる反グローバル経済、内生経済化、保 護貿易は、マスコミが騒ぎ立てるような反グローバル主義、ポピュ リズム、全体主義ではなく、時代の逆行でもなく、むしろ進むべき 本来の姿なのかもしれないと言う考えである。

江戸時代の幕藩体制の様子をもう少し補足しておくと、例えば幕府 の命により廃藩、国替えが頻繁になされた。その時には、襖の掛け 軸に至るまでの財産目録を作り、次の新しい領主に引き渡された。 つまり領主の私物は認められなく、共有管理でありある意味共産主 義国家とも思える部分もあった。

しかしその一方で藩独自の藩札(紙幣)の発行が認められたり、幕 府に直接吸い上げられる上納金があるわけでなく、共産主義国家と は言いがたい。民意に変わる忠義による地方自治が確立されていた ともいえる。

もう一つ、江戸時代の特徴に言及しておく。幕府の藩政政策の重要 な手段が、改易、国替えを繰り返し大名の力をコントロール下に置 ことである。実際の江戸幕府時代を通じて国替えがなされなかった 藩主は片手ほどしかいなかった。

琉球ににらみを効かす薩摩、蝦夷に対峙する奥州、朝鮮に対峙する 対馬など外交上の重要な藩主のほか、徳川譜代の家臣井伊家ぐらい しかない。その他にもう一人幕府に重用された藩主がいた。四国の 伊予藩の藤堂高虎である。その後、高虎は伊予藩に加増される形で 三重県の津藩の領主になり、東西の要所である津でにらみ効かせ た。

高虎は、周知のとおり、江戸城などの築城に功績があり、城づくり の棟梁であった。津幡はそれまで戦国時代の山城を捨てて、今の三 重県の津市、津つまり河川に隣接して新たに築城し、城下町・宿 場・農地を整備したのである。当時のいうところのスマートシティ ーを作りあげたのである。

京都・大阪から東に抜ける陸と海の街道の要所に、新たに城を作 り、城下町を整備し商いの振興を促し、農作物の灌漑を整備し生産 性を上げ、伊勢神宮につながる街道を整備し周辺のネットワークを 確立した。つまり戦国の山城ではなく、泰平の世の内生産業の経済 の成長エンジンの為の器を整備したのである。

戦国から江戸時代への転換期に必要な社会の器づくりの名家が、江 戸幕府の中でその功績が認められ、重用された。いかにこの時代の 転換期に必要な人材であったかがうかがわれる。

名古屋ビジネス情報資本主義地価略奪経済グローバル経済江戸幕藩体制